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塾頭の生い立ち~大学時代

2020/07/03
Victoryブログ

こんにちは。

塾頭山崎です。

早稲田大学には「ギリギリ」合格できたことは

前回述べました。

その後、翌年の4月まで早稲田大学は、

近隣にある早稲田中学高校で我々に

補講をしてくれました。

10月~3月までの半年間。

そして、1985年4月から大学生になりました。

まず、「クラス」ですが、

語学のクラスが振り分けられました。

40数人のクラスの中に女子は3人だけでした。

完全な「男所帯」。

その中に開成高校から入ってきた「K君」がいて

みんな彼の「ノート」を頼りにしていました。

クラスの面々は本当に面白く、

全国の有名高校から集まっていました。

「1年浪人」は当たり前の時代で、

「2浪」の人もたくさんいました。

逆に「現役」で入ってくる方が珍しく、

初対面の挨拶が

「1浪?」

「そう」

「同じだ、よろしく」

みたいな感じでした(笑)

ここで

「現役」という答えが返ってくると

「まじ?すげー」という話になり

尊敬の目を向けるのですが、

「俺、学院(早大学院)」

と聞くと、

「なんだ、学院(内部進学)か」

と冷ややかな目で見る風潮がありました。

当時の受験倍率は9倍とか10倍でしたので、

一般受験をくぐり抜けて合格するのは

本当に大変だったのです。

当時の大学生生活というものは、

ほぼ「勉強」するところではなく

「サークル活動」「アルバイト」「麻雀」

がメインでした。(私の主観!!です)

(勿論、勉強している学生もいました!)

私もご多分に漏れず、

「サークル活動」にいそしもうと思っていました。

早稲田にはテニスサークルがごまんとあり、

その中で選んだのが、

「早大テニスクラブ(WTC)」というサークルでした。

当時、「関東一強い」サークルでした。

私が入った年までに「関東にある同好会(サークル)」

が参加する団体戦で3連覇していました。

両親が通ってきた「体育会」(いわゆる部活)

に入ろうかと思いましたが、

早稲田大学の庭球部はインカレ優勝常連校です。

全国からインターハイ出場選手がスポーツ推薦で入ってきます。

私のような「初心者」がいられる場所ではありません。

それに「海外留学」をしたいと考えていましたので、

体育会に入るとそれができない可能性があると思い、

サークルにしました。

「どうせ、やるなら強いところで」と想い、

WTCにしたのです。

学校の授業は「英語」と第二外国語の「仏語」が

必修で、「出席」を取るので、出席していましたが、

それ以外の授業にはあまり出席せず遊んでいました。

(今と違い、当時の大学生は「当たり前」でした)

ちょうど大学に入学する時に

家族が横浜から東京の西にある多摩センターに引っ越しました。

そこから早稲田まで2時間近くかかり、横浜にいた時と

あまり変わりませんでした。

しかし、家の近くにテニスコートがあったので、

そこで近所のおじさまやおばさま相手に

テニスができました。

サークルは月曜から土曜日まで

東京のどこかしらのコートを年間契約していて

朝から夕方までみっちり練習していました。

月曜日は深大寺(調布)

火曜日は田無

水曜日は上石神井(練馬)

木曜日は秋津

金曜日は大泉学園

土曜日は篠崎

というようにかなり都心から遠いところに

コートがありましたので、

家から行こうとすると

かなり遠かったです。

アルバイトは、一番最初は

新宿の小田急デパート内にある

「蕎麦屋」でした。

半年くらい続けました。

そして、大学1年生の秋に大学が行っている

「交換留学プログラム」に応募して

合格し、大学2年生の9月から米国に飛びました。

カリフォルニア州立大学サクラメント校に

行くためでした。

あなたも多分、耳にしたことがある

「UCLA」(University of California, Los Angels)

とか、ソフトバンクの孫社長が卒業された

「UC Berkeley」(University of California, Berkeley)

は、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、

カリフォルニア大学バークレー校で、

私の通うことになった「カリフォルニア州立大学」

よりはランクが上なのです。

早稲田大学は、「カリフォルニア州立大学」と

提携していました。

今日はこの辺で。

最後までお読みいただきありがとうございました。

感謝

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